ハロウィン肖像画Ⅲー2 中園慶子 | New 天の邪鬼日記

New 天の邪鬼日記

小説家、画家、ミュージシャンとして活躍するAKIRAの言葉が、君の人生を変える。



慶子は全身全霊で笑っている。

「ミセス笑顔ユニバース」世界チャンピオンである。
慶子の笑顔はたくさんの人によって作られてきた。

慶子の母は思春期に患った病で聴力を失った。
慶子の兄をシングルマザーで産み、働いていた石川県で父と出会い結婚し、慶子が生まれた。
慶子の父は大工をしていたので職人さんたちの出入りも多かった。
ギャンブルやお酒、タバコが好きなおっちゃんたちのなかに紛れて、仕事には関係のないおじさんもくることがあり、明らかに酒乱だった。
夜にお酒を飲むと豹変してしまい、乱暴な言葉になり、暴れてしまうようで、他人様の家を練り歩くそんなおじさんだった。
母は、決して邪険にあしらわなかった。お酒を飲んでいない時は、優しいおじさんで、子供のためにもお酒はほどほどにするようにと母は気にかけていた。
そのほか、不思議なおじさんが来るようになった。
決して名前を教えてくれないので「鳥屋のおっちゃん」と呼んでいた。
母が商店街で、見慣れない小動物を売るこのおじさんとよく話をしたようで、ある日おじさんが、慶子の家にやってきた。
身なりは、粗末で動物とワンボックスの車で暮らしているので匂いもする。
お腹をすかしているのを察した母が、食事をふるまう。
「無銭飲食するわけにはいかない。好きな動物をもらってくれ」と、動物をくれるのである。
オナガドリ、チャボ、カナリア、うさぎ、ペリカンがやってきたこともあった。我が家は小さな動物園のような状況だった。

家の近くに精神科病院があり、入院されている患者さんがとなりの布団屋さんの工場に作業に来られていた。
入院しているひとに「仕事にくる?」いわれ、布団工場をそろりとのぞきにいく。
そのとなりには、韓国人のご夫婦が住んでいて、民族衣装と美しい化粧をされるお姉さんに憧れ、遊んでもらったりした。
慶子は子供の頃から、人に関心があったのだろう。

慶子には、同じ歳の脳性小児麻痺の従姉妹がいた。
子供の頃、彼と遊ぶのが不思議と心地よく、それは父と母が従姉妹をとても可愛いがっていたからなのかもしれない。
彼が9歳で亡くなり、亡骸を祖父母が抱きしめて眠るくらい、彼は大切にされていた。
叔母は、出産のために彼の最期にはいなかったことをきかされ、当時9歳の慶子は生と死を強烈に意識した。
「身体が不自由であっても、脳に障害があっても、かけがえのない命。最期まで、大切に慈しみたい」と心に刻まれた経験である。

慶子の7歳上の兄は、ヤンチャでバイクに乗り仲間を連れてやってくる。
兄の仲間たちは、髪の毛はくるくるパーマに剃り込みに、リーゼント。眉毛はない。
家に帰ってくると「おかあちゃん!こいつらに飯くわしたって!」」である。
兄の友達は、つっぱりといえど慶子には優しく、面白く、怖くなかった。
兄から聞けば、みんな家族のあれこれがある兄の仲間たちであった。


慶子が看護師になろうと思ったのは、早くも中学三年生である。
全国身体障害者スポーツ大会が滋賀で開催され、慶子が通う中学校が盲人野球の会場となっていた。
グランドを見ると、見えてないはずなのにボールを投げる!キャッチする!バットで打つ!走る!まるで見えているかの如くプレイをされている姿に感動し、ここにくるまでの努力や苦労、苦難を想像すると毛穴が開く勢いで震えた。
慶子は、「その苦悩の過程に関わりたい。そうだ、看護師になろう!」という夢を描いた。
衛生看護科のある高校に家族の反対を押し切って合格する。
高校3年生になると病院実習ががあり、遷延性意識障害のある方を受けもった。
脳障害のため、お話も自ら身体を動かすこともできず。意思疎通ができない、慣習的に植物状態といわれる女性の方であった。
痩せて寝たきりの方に、触れることも恐る恐る。慶子は祈る気持ちで手をマッサージした。毎日手を握りながらお名前を呼ぶと、ある日、私の手を軽く握り返してくれた。
歓喜したことを今も忘れないという。

高校を卒業するとき、経済事情で昼間定時制の看護学校で働きながら進学する道を選んだ。
そこで鹿児島からでてきた夫と出会う。
笑いながら自分の貧乏話をしてくれる夫と気が合い、結婚を決めた。

長女と次女を無事出産し、次女が3歳になる頃、看護師として重度心身障害者通所施設で働くようになった。
子育て真っ最中の慶子は、ありのままの我が子を愛するお母さんたちからたくさん学ばさせてもらった。
お母さんが元気でないと、この子たちを守れないと思い、どちらかというとお母さんのケアを心がけた。
重い障害があっても、ひとりひとり個性的で、楽しみ方がそれぞれで、笑いのツボが違い、すねたり、笑顔を返してくれたり。なんだか元気がなかったり。全身で表現してくれたり、小さな動きで表現してくれるひとりひとりが愛おしいかった。

そのあと救護施設で働き、様々な環境を生きてきたひとたちと出会う。
琵琶湖畔で廃車の車のなかで暮らしていたひとは、お風呂がわりに琵琶湖に入っていた。
人が苦手で生きにくく、日本中を歩いて3周したひとがいたり。
累犯障害者といわれる、刑務所をでたり入ったりしている万引き常習犯もいた。
「シャバが苦しい、自由が苦しい」といい、慶子は切なくなり、どう支援したらいいのか、毎日話を聞いていたが、ある日缶酎ハイ一本万引きして刑務所へ行ってしまった。
面会に行ってみたが、家族がいない彼は面会にくるひとがいないので、面会を認めておらず、会えなかった。
聴こえず、話せず、見えない。そんな重い障害がある方を毎日、そばにいっては手遊びをして触れていた。
感触で誰がきたかをわかってくれたときは、うれしかった。

仕事に邁進する日々のなか、仕事の辛さを癒やしてくれるのは、アルツハイマー認知症と診断され在宅介護していた父であった。
認知症になった父は、穏やかで愉快で、いつも笑いが絶えなかった。
娘たちは、おじいちゃんが大好きで、おじいちゃんのベットに一緒に入ったりアイドルのダンスを娘と楽しむ姿が、なんとも可愛らしい。
入院しても、デイサービスでも、何故か人気者で大切にしていただき、徳のある父だった。
後にデイサービスの職員さんから、「あなたのお父さんとお母さんをみていると、愛しか感じなかった」と教えていただき、母はあんなに怒ったり嘆いたりしていたけど、父を大切にし愛していたのだと知り意外だった。

2013年12月、父の意識が突然なくなり病院に搬送され、もう最期だろうと告げられる。仕事で幾人も看取りをしてきたので、職場に有給を願いでて、付き添う10日目。
髭を剃ろうとしたら「もうええ」と、生の引きぎわを自分で感じているようだった。
これが最後になるなぁと思い、好物の小豆あんこを舌に少しだけ置いてみた。するとごっくん!とうまく飲み込んだ。
その夜は父の好きな民謡をかけながら背中をさすり、父との時間を過ごした。
少し私が仮眠したとき…夢の中で私が施設で看取った人たちが、たくさん笑顔で会いにきてくれ、いつしか涙で目が覚めた。
きっとみんなが父を迎えにきてくれたのか…  
夜が明けて母と娘を病院に呼び、最期は家族が見守るなかで父は静かに息をひきとった。


父と介護する間、慶子は不正出血がとまらなくなり、子宮内膜がんと診断される。
父の四十九日の翌日 である2014年2月、子宮、卵巣、大網を切除。リンパ転移なし、32センチの開腹手術。子宮内膜がん ステージ2b。
その後、抗がん剤治療を半年受けた。

治療から一年半過ぎた頃、友人から「AKIRAさんという癌サバイバーのライブ行こう」と誘われ、看取り士、柴田久美子さんとのコラボライブへいく。
AKIRAさんに「3年たつと楽になるよ!」いわれ、吸い寄せられるようにライブに通うようになる。
4回目のライブに参加した尾崎里美ねーやんとのコラボライブでCDが全部そろい、「滋賀にもきてくださーい!」と、勝手に言葉がでて初主催を決めたときから、さらに生きることが楽しくなる。
AKIRA歌に癒され、滋賀と沖縄合宿にも参加して、絵画ひまわりを購入。
AKIRA&みかん師弟ライブ、AKIRA&古市佳央這い上がりライブ主催したり、みかんちゃんバースデーライブ、昌子ちゃんの生前葬ライブを共同主催させていただいたり。
仕事の疲れはAKIRAライブで発散の日々。
コロナがはじまったとき、どこにも行けないストレスマックスの慶子にAKIRA絵画「祈り人」が力をくれた。
AKIRAオンラインライブを主催し、リクエスト曲を募ると、23曲。ぎょえー!
「AKIRAさんは、全曲歌うよ!とどんだけ与え尽くしのAKIRAさんなのーと感激したのを忘れない」という。
4時間を超えるロング配信。
85名も参加してくれたみんなで泣いて笑って絵画を堪能して歌を聴いて、昇天した。


慶子は2021年に難治性の膵臓がんを宣言される。
医師がなりたくない癌のNo. 1は膵癌である。
膵臓がんは診断と治療が難しく、手術できるのは20%ほどで、5年生存率も10%〜30%と、ガンの中でもっとも低い。
気持ちが揺れ、追突事故を起こしてしまった。
地獄の竈のなかにいるような灼熱のなか、「私はまだ死ねない」強くそう思った。
慶子が加害者で、そのあと車の運転ができなくなり、部屋から出られなくなった。
被害者の方がほんとうに優しく、慶子を心配してくれ、マリア様のような方だった。

膵臓がんは2センチあったが、SNSでみんなに「祈ってください」と呼びかけ、1、6センチに縮小した。
2021年11月15日の手術時間に合わせ、みんなから祈ってもらう。
医療用ロボット「ダヴィンチ」が人と手では難しい臓器の奥にもぐりこみ、膵臓の3分の2脾臓を切除する。
オレの胃がんの手術は3時間だったので、10時間とはそうとう困難な手術だっただろう。
膵臓は血糖値を下げる唯一のホルモン、インシュリンを作る臓器なので、予後もたいへんだ。
手術後も痛みと発熱、息苦しさ、下痢と絶食などの困難を乗り越え、病棟を3周できるようになり、自分で体を動かす慶子に看護師たちも感心していた。
主治医によれば、「手術で切除した膵臓に腫瘍の形はなく瘢痕だけでした。90%ガンは死滅していたようで、ガンが膵臓の壁を一部超えていたようですが、腹膜播種やリンパ転移はありませんでした」
と祈りとイメージングの力は絶大だね。
主治医は、慶子の回復力に驚いていたという。

現在慶子は、要介護5の母を在宅介護している。
「ときどきキレそうになる」というが、今まで全てを受け入れてきた慶子に「キレるレッスンも大切よ」と母が教えてくれているのかもしれない。
慶子のさらなる目標は自叙伝を勇者文庫から出版すること。
そして11月5日(日)滋賀県大津市立文化会館にて桂小軽&AKIRAコラボライブ主催だ。
笑って歌って元気になろう
13時から16時。参加費 4500円です。

2022年11月末に20年間看護師として勤めた救護施設を退職する。
膵臓ガンの治療がうまくいき、命を喜ぶ姿を描いていただけたらいいなぁと思い、その記念にハロウィン肖像画を依頼する。


誰もがこの絵画を見ただけで、元気になる。
思わず「ありがたや〜」と拝んでしまうほど慶子の笑顔パワーが放出されている。
ハロウィンメイクは、ひたいに蓮のろうそく。
比叡山延暦寺を開いた最澄の「一隅を照らす」という言葉があり、看護師の慶子は、身寄りのない人や家族と住めない人を介護する施設で働いてきた。
慶子の娘は二人とも比叡山中学、比叡山高校出身で、一隅を照らすを毎日聞かされていましたという。
目からはあたたかい光が放射している。
あごには慶子がいつかパプアニューギニアに行けるよう精霊「トゥブアン」を描いた。
お父さんの大好物「粒あん」を連想させる。


構図の中でもっとも強力なもっとも強力な放射線構図を使い、水色にひまわりを描いてマスキングし、赤や黄色や白の花を描く。
動画配信でかっこよく「マジックショー」を見せるはずだったが、まちがって両面テープを貼ってしまい、はがれない。
「マジックショー」がテープはがし作業員の現場みたいになってしまった。(笑)
初挑戦には失敗がつきもので、失敗する姿を届けられてかえってよかった。
失敗しても挑み続ける、失敗を楽しむ「チャレンジ脳」になれば怖いものはない。


慶子は闘牛士(マタドール)である。
子宮がん、膵臓がんという暴れ牛を赤い布(ムレータ)で見事にかわし、帽子を表とあげ、湧き上がる歓声に満面の笑顔でこたえる。
上部中央にはメキシコのブリキ細工「オハラータ」でハートを意味する「コラソン」というお守りである。
さらにハートをフクロウに変え、アイヌ語で「コタン(村)コロ(守る)カムイ(神)」知恵と勇気の守り神でもある。
上部はAKIRA屋敷のトイレを飾る仮面、左が「善と悪」、右が「生と死」である。
お互いにパワーを送り合うアンテナ基地になる。
飛騨にも両面宿儺(りょうめんすくな)という2面の伝説があるが、人は対立する2面性を抱えているから人生が活性化するのである。
善と悪のせめぎ合いに悩みながら、生と死を共に生きる。
敵同士が一つのものだったと知る時、

「生きることは喜び以外の何ものでもない!」と悟るのだ。


ハロウィン肖像画Ⅲー2 中園慶子

F15号(652×530mmSold


ライブペインティングの動画

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=244432728383881&id=100000789583722


ハロウィンメイクの動画

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=313518077690304&id=100000789583722


ブログ




★「ハロウィン肖像画」をあと4人まで募集します。(2024年スリランカにて制作予定)

12万円。1ヶ月1万円から分割可能。

1分でも早くメールをくれた人が優先です。

akiramaniacom@yahoo.co.jp


★ハロウィン作品はすべてSoldなので、AKIRA絵画を購入できるのは、4作品のみです。